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『ららほら』の立場から、『美しい顔』について考えたこと

藤田直哉


 この文章は、震災文芸誌『ららほら』を準備しながら書いたメモである。『ららほら』の中には収録されていない。

 北条裕子氏の『美しい顔』が刊行されるにあたり、『ららほら』に寄稿してくださった金菱清氏が、 「「美しい顔」の出版について談話だと当方が協議や交渉を経て改訂稿を認める形になっています。そのような事実はなく、改訂案が一方的に送られてきました。原作者が「剽窃」の疑われている作品の改訂への関与など断じてありえません。編著者の関与について撤回訂正を求めます。」 https://twitter.com/kanabun0711/status/1114698406201401344  と改めて問題提起をなさった。

 それを受けて、この問題に対しての議論を耕し、多くの人々に何が問題なのか共有していただき、必要な共感を育むために、この文章を公開することにした。北条作品の露悪的な側面を中心に論述しているので、ご不快に思われる方もいらっしゃるかもしれない(それがこれまで公開を躊躇っていた理由である)。ご注意いただけたらと思う。


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『ららほら』は、震災文芸誌である。震災の当事者と、その言葉を集める人たちにフォーカスし作られた文芸誌である。被災地に行き、取材をしながら作った本なので、編者自身が対象に「転移」をしながら作られるという特徴のある本である。二〇一九年四月に刊行される。

 この本は、以下のような意図で創刊された。「はじめに」の冒頭から引用する。


* * *


『ららほら』を創刊する。

 震災文芸誌、と銘打ち、クラウドファンディングで資金を集めた。東日本大震災を経験した人たちの言葉を集める文芸誌のプロジェクトである。

「震災文芸誌」とは造語で、東日本大震災とその周辺の事柄を扱った文芸誌、というぐらいの意味である。

「文芸誌」である、ということは、ジャーナリズムや報道や体験記、とは異なる、という意思表示のつもりである。ここで言う「文芸」もしくは「文学」とは、一般論や通念、報道などとは異なる「リアル」なり「単独者性」なりが噴出しうる自由の領域、ということを含意しているつもりだ。そのような、安全に本心を露呈させることのできる「枠」であり、必要とあれば一般読者をぶっちぎるほどの複雑さや高度さに達しても構わない、それを許容する場でありたい、というのが「文芸誌」と銘打つ理由である。

 この「枠」を作った理由は、SNSなどを中心として、震災を巡る言説空間が、あまりにも綺麗事になるか、あまりにも政治的なイデオロギーになるかばかりで、異質で細やかな言葉や思考や感情に向き合わないようになっていたからである。それが善意に基づくものであれ、理念や思想に基づくものであれなんであれ、ステレオタイプで平板な言葉ばかりが並んでいることに対する忸怩たる思いが、ずっとぼくの中にあった。――時にぼく自身も同調し、平板でくだらない思想を声高に叫んだが。

 「本当の言葉」に出会える手応えが急速に失われている感じがした。そのような平板な言葉で語られた事態など、偽物のようなものだ。だから、「本当の言葉」で語られたものを通じて、震災という事態の「真実」に出会いたい、とぼくは思った。それに出会うために、自分自身で動くことにした。それがこの『ららほら』を創刊した初発の動機である。

 もちろん、語り継ぐ、記憶・記録する、共感する、課題を共有する、慰霊する、追悼する、などの目的を、本書はもちろん大事にするし、それが役割であると「公的に」公言し公表するだろうと思う。公共性に寄与することをもちろん本書は目指している。

 しかし、あまりにも多くなり過ぎた平板な「公的な」声が掻き消してしまう(かもしれない)私的で、必ずしも有用性のない声の響きに徹底的に拘ることから結果として到達すべき「公的」かつ「公共的」な役割というものもあると思うのだ。ぼくはそれこそが、文学の公共性だと信じる。生身の、生きられた人間の身体を通じて、なにがしかを語ることこそが、文学の始まりの場所である、と信じる。

 だから、ぼくは、この「はじめに」を私的な声で語ろうと思う。


 * * *


 このように宣言した以上、『美しい顔』については、『ららほら』とどう同じでどう違うのかを検討することは避けられないのだ。特に、「本当の言葉」と「当事者性」の関係に関して。

『ららほら』の企画から現在までの間に発表された注目すべき震災後文学として、二〇一八年に群像新人文学賞を受賞し芥川賞候補になった北条裕子の『美しい顔』がある。

 『美しい顔』は、震災の当事者が語っているかのような一人称を採用した作品であるが、作者は震災を経験してはいない。この作品に、盗作疑惑が持ち上がり、議論が沸き起こった。

 騒動を端的に言うと、東日本大震災の被災者の一人称で語られるその内容が、石井光太『遺体 震災、津波の果てに』と、本書にも寄稿していただいた金菱清氏の『3・11 慟哭の記録』を参考にして書かれており、参考文献表も掲載されていなかったのだ。

 形式的な論点はそこだが、本質的な問題はもっと深いところにある。倫理的な面としては、被災した当事者が書いたものを「簒奪」してよいのか、文学は他人の書いたものを下敷きにして良いのか、という「事実」と「文学」を巡る本質的な問題に発展した。

 その問題を整理すると、一、盗作疑惑(技術的問題)。二、被災者の言葉の簒奪(当事者性、倫理的問題)。三、露悪性(善意や建前の裏にある欲望の露呈)

 このうち、一は特に議論の余地なく悪いわけだが、二については、以下の金菱清氏が新曜社通信に寄稿した「「美しい顔」に寄せて――罪深いということについて」を引用するのが、一番早いと思う。「7年余りという年月はどういうものであったのだろう。震災(被災地)の外では、震災をかようにようやく語り始めたようだが、震災の真っただ中にいる当事者は、ますます語らなくなっている現実がある。この逆転現象をどのようにみるのか。本作品では7年前のとある出来事のように雄弁に語られるが、7年経って今の被災者はその多くが口を閉ざして固く沈黙してしまっている。7年経ち、逆に7年前の記憶で止まったままの多くの読者にとって、本作品が『疑似的』に新鮮にうつるのだろう。だが事実は小説よりも奇なりの側面を抱えていることを私たちは常に現場で教えてもらう」「つまり、当事者にインタビューをすれば震災を理解できるというものでは、すでになくなってきている。当事者もどう震災を理解してよいのか考えあぐねている場面に多々巡り会う。小説家だけが言葉を書く特権性を持ちうるのだろうか。否、市井の人々こそ言葉を書き綴ることの文学性を持ち合わせていると痛感する時がある」。

 語ることが困難で、非常に困難を強いられながら言葉を生み出す当事者と、産婆役の編者が、「文学」の名のもとにやすやすとそれを使われることの憤り。それは分かる。文学はこれまでもノンフィクションを利用してきたじゃないか、という反論も分かる。金菱は、北条があまりにもやすやすと、迸るように言葉を発するのが(しかも、個人的な自意識的な問題の舞台背景としてのみ震災を使い、被災者の言葉を使うことが)許せないのだ。

 『ららほら』の立場からすると困るのが、三の露悪性である。被災地に取材に来たカメラマンを、かわいそうな人間を消費するポルノグラフィを撮影しに来た人として描き、その欲望に呼応してかわいそうな被災者を演じていく目立ちたがりの若い女性の共犯関係を描いた箇所がある。端的に言って、カメラマンは災害のカタストロフに興奮し、かわいそうな被災者でオナニーしている、と描いているし、被災者は被災者で物語を演じて同情などをせしめる詐欺師みたいに描かれている。

「公」の名の下の抑圧により発せられない声を発することこそが、文学の使命であると考えた場合、この作品を擁護しなくてはいけないのではないか? 理屈としてはそうなのかもしれないが、どうもぼくにはこれが「本当の言葉」のようには感じない。これは倫理的というよりは、美的な判断だ。作者の演技的な人格における「本当の言葉」は確かにあるが、震災という未曽有の経験に即した「本当の言葉」という、ぼくらが耳を澄ませようとしている特異な声とは程遠い、ステレオタイプな声でしかない。もちろん、こういう皮肉の面白みや問題提起の価値は認めるし、才気ある文体であることも否定しない。が、個人的には、『ららほら』とは正反対の方向を向いている震災後文学だと感じる。

 『美しい顔』の場合、自意識が主で、震災は舞台装置や背景程度の扱いであり、利用の仕方はテクストからテクストに移し替える、というものである。それに対し、ぼくがこの『ららほら』で示した方法論の差は大きい。「事実」と「虚構」の絡み合いの処理の仕方においても、「嘘」を誰のためにどのように用いるのかも、大きく異なっている。生きるために必要とされるささやかな共同幻想や物語や詩情と、まるで自分が東日本大震災の被災者であるかのような「舞台装置」「化粧」をするという「嘘」には、差がある。大きな差は、誰に奉仕し、誰を幸福にするものなのか、誰に利益を与えようとするものなのか、ということである。



 肝心の指摘である、カタストロフをポルノ的に消費する、という問題については、反省させられるところもあったが、既に「同時代としての震災後」や『シン・ゴジラ論』で何度も論じてきたことでもあった。震災直後のツイッターで、「怪獣映画みたいだ」と興奮する書き込みがたくさんあったのもよく覚えている。所詮は映像でしかないそれは、映像としてぼくらに到達すれば、そういう枠組みでの理解になってしまう、という経験からこそ、ぼくは震災後の表現のありうべき姿を探ってきたつもりだ。その証拠に、二〇一四年に、ぼくは、震災や震災後の「むき出し」の「リアル」を見たいという衝動は「猥褻」なのではないかと論じた「震災ドキュメンタリーの猥褻さについて」という文章を寄稿している。

 同様の指摘は、決して珍しいものではない。表面的に「真面目」を装いながら、別種の欲望が隠されている、ということは、我が身を振り返っても「あるかもしれない」と思うし、あるいは自分すら意識していない無意識がそうかもしれないことは否定できないのである。カタストロフそれ自体に興奮するとか、日常に馴染めないから非常時を求めるとか、他者の悲惨のドラマを消費したいとか、「邪悪」と言われても仕方がない欲望・欲動が知らず知らず自分を動かしているのかもしれない、という懐疑は、折に触れてぼくを襲った。

 小谷野敦は、『江藤淳と大江健三郎』の中で、このような指摘をしている。『ヒロシマ・ノート』で大江健三郎は、原爆投下後の広島を取材に行く。そこで、被爆者たちの、医学的にも制度的にも解明や救済が遅れ、絶望の中、死に向けて進んでいく人々を描いている。そして、その中で人間的に勇気を持っている人間に、むしろ大江健三郎自身が救われ、変えられていく様子が描かれる。「真に広島の思想を体現する人々、決して絶望せず、しかも決して過度の希望をもたず、いかなる状況においても屈服しないで、日々の仕事をつづけている人々、僕がもっとも正統的な原爆後の日本人とみなす人々」(p186)の崇高な姿に接しながら、大江健三郎は、自己の個人的な苦境を超える覚悟を決めていく。

 小谷野敦は、このような指摘をする。「大江が、『何とも知れない未来に』とか『核による終末』とか言う時、私たちは常識的に、大江が、それが来てはならないと言っているのだと理解する。だが、表層的にそうであっても、大江は、人類の滅亡、あるいは集団自決といったものに、性的興奮を覚えているのではないか」(p348)。

 悲惨や惨劇に性的興奮を覚えており、それを覆い隠すためにこそ、表層的な「正しさ」を纏う、そういう作家として小谷野は大江を見ている。文芸評論家として、そのような逆説があるかもしれない、ということは、素直に認める。フロイトの精神分析を持ち出すまでもないだろう。

 しかし、「だから駄目」と考えるべきなのだろうか。あるいは、「にもかかわらず」と考えるべきなのだろうか。あるいは、「それによってこそ」と考えるべきなのだろうか。この問題を考えると、ぼくの思考は迷宮の中に入っていくようになってしまう。

『美しい顔』のやりたいことは分かるし、一定の理解もするが、ぼくはもう少し、東北的な優しさとはにかみにあふれた「ささいな嘘」(ららほら)の、穏やかで他者の生に対する共感と敬意に溢れたユーモアの方が好きである。カタストロフをポルノ的に消費することの問題系はもうわかった。911のときからずっとそういうことを問題にしてきたので「もういいよ」「わかってるよ」というのが正直な気持ちだ。だから美的な価値においても、ぼくにはそれほど高く評価はできない、それよりも『ららほら』に寄稿していただいた多くの方々の繊細で葛藤に満ちた声の襞のほうが、よっぽど「文学的価値」があると思う。ここでいう「文学的価値」とは、より複雑で、より固有で、より本当で、より繊細で、より特異だという意味だ。倫理的にではなく、美的な次元においても、そう感じられるのだ。

 この「文学観」には異論が来ることは分かっている。ぼくがここで言っていることは、東日本大震災後における新しい文学評価の基準の提案である。東日本大震災後の文学があるとすれば、それを論じ評価するぼくらも、「東日本大震災後の文学観」「東日本大震災後の文学理論」を作らなければいけないのではないだろうか? この騒動が、その確立に向けた困難な議論に繋がり、被災地とそれ以外の懸隔を埋める手助けになっていくことを、心より願う。

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